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    長嶋有『三の隣は五号室』中央公論新社

    • 2016.09.24 Saturday
    • 23:14

    積読になっていたのを救出。私は雑誌や新刊情報をまめにチェックしておらず、どなたがTwitterで言及していたのでその翌日に日本橋のタロー書房へ走った。それが6月末。そこからの謎時間の経過。

     

    アパートの同じ部屋(五号室)に暮らした13世帯の生活が行きつ戻りつ語られる。部屋の間取り図が本の冒頭ではなく少し読み進んだところに載せられているの、映像が始まってもすぐにタイトルが出てこない映画やドラマみたいである。(先に個の間取り図をちょっと見てしまった自分にとても後悔している。間取り図が頭に入っていない段階で、五号室の構造が説明されるのだが、そこでどれだけうまく部屋のディティールを想像できるか自分で試してみたかった。なお、長嶋有作品では『ねたあとに』でも間取り図(&「ケイバ」という遊びの進行を描いた図)はとても重要な役割をはたしている。

     

    障子をこれほど丁寧に取り扱っている小説は近年まれではないだろうか…

     

    五号室の隣は四号室ではなく、三号室なのだが、四というナンバリングが飛ばされていることに多くの住人が気づいていないことが、「神の視点」から繰り返し語られる。時間は容易に行きつ戻りつするし(※そのために読みづらいということはない)、「神の視点」は、変な言い方をすると、読み手のこれまでの理解を整理するような言動を繰り返す。

     

    隣の部屋は四号室ではない、というのは、例えば一休さんの会話や推理小説の道具立てには重要かもしれないが、この物語の中では四号室でも五号室でも、住人たちの暮らしに影響はない。

    住人たちが気づいていなかったことを、「神の視点」から伝えられると、世界の広がりの果てしなさに(自分が気づいていないで済ませていることが気の遠くなるほどあることに)圧倒されて、もっと注意深く生きようと一瞬思ったりする。

    が、しかし、現実世界で「神の視点」を持ち合わせることはほぼ無理だし、そういう瞬間がたまに訪れても、なんだかとてもさみしいのである。

    例えば、大学の語学のクラスの同級生Xと、同じサークルメンバーのY、私にとってXとYはどちらも友達だが、XとYは互いに知り合いではない。XとYの素っ頓狂な挙動が似ていてそれに翻弄され、XとYは似ているなあと思い、次の瞬間にXとYを同時に知っている人間はたぶん私だけ、ということに気付いて、なんとも寂しい気持ちになった。

     

    いつ頃どんなものがあこがれられていたかが生々しく伝わってくるすぐれた時代絵巻にもなっている。

    SMAPのこともちょっと出てきて、同じ部屋に暮らしていた(互いのことを知らない)住人が思い思いにキムタクの出てくる番組を見ている。

    視聴率という言葉からはなかなか想像が至らないが、自分の知らない人も、自分と同じテレビ番組を楽しんでいた、ということに思いをはせると、神の視点の寂しさとはまた違った、じわじわとした喜びがわいてくる。ツイッターでも、今自分と同じ番組を視聴している人の存在に触れることはできるが、それこそ「神の(第三者の)視点」から、架空だが実に具体的な描写を与えられると、想像に奥行きが増す!

     

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